夢録 
20  新選組三番隊隊長 斎藤一直系ご子孫
藤田さん

(後編)    
19  新選組三番隊隊長 斎藤一直系ご子孫
藤田さん

(前編) 
18   
17 
(後編)     
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(前編)   
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14  無外流居兵道 範士九段 第十五代宗家 塩川寶祥照成 先生 
13  天然理心流 宮川清藏勇武 九代目宗家   × 無外流明思派 新名玉宗宗家 
(後編)
 
12  天然理心流 宮川清藏勇武 九代目宗家   × 無外流明思派 新名玉宗宗家 
(中編) 
   
11  天然理心流 宮川清藏勇武 九代目宗家   × 無外流明思派 新名玉宗宗家 
(前編)  
10  土方歳三 資料館 土方愛館長 
(後編)    
09  土方歳三 資料館 土方愛館長 
(前編)
08  天然理心流 勇武館副会長 井上雅雄先生
(後編) 
07  天然理心流 勇武館副会長 井上雅雄先生
(前篇)  
06  天然理心流 宮川清藏勇武 九代目宗家
(後編)
  
05  天然理心流 宮川清藏勇武 九代目宗家
(前編)
04  新選組近藤勇 局長ご遺族 宮川豊治さん 
03   作家 島地勝彦先生 
02  無外流明思派 新名玉宗宗家
01 作家 北方謙三先生
 
 
   
 
 
 
   
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近藤勇五郎の肖像 (提供 宮川豊治さん )




3)近藤勇処刑。そのとき宮川勇五郎さんは



貴重な近藤勇五郎氏のショット(提供 宮川豊治さん )

武田 近藤勇さんが板橋で亡くなられたときの様子については何とおっしゃってたんでしょうか。


宮川さん それについては、龍源寺の住職が詳しく聞いていますので、その内容をご紹介しましょう。勇五郎が17歳の頃の話ですから、70年くらい前の話をしゃべっているわけです。ですから記憶違いが出て来る。勇五郎が中野の成願寺からたまたま出かけたときに「板橋で今日は新選組の誰それの処刑があるらしいよ」と耳にして、慌てて板橋まで行った、と子母澤さんは書いている。だけど、龍源寺の住職に話したのは、「上石原の家から江戸に用事で向かう人見街道の途中、牛込の当たりで用事をしていた。そこで耳に挟んだ、という事情です。

武田 子母沢寛先生の記述と違うわけですね。

宮川さん そうです。人見街道と甲州街道の二つは江戸に向かう道です。家康が幕府を作るまでは甲州街道はありませんでした。府中までは甲州街道、府中から東南へは人見街道が唯一の江戸へ行く道です。五日市街道、青梅街道に必ずぶつかる。今の新宿三丁目の大通りに出る。


勇が江戸に出るのはいつも人見街道。勇五郎もそうだったんでしょう。そうすると正しいのは勇五郎の言葉だということになります。

勇の頃は、勇にとって天然理心流の先輩の原田さんが調布にいたので遠慮してそちらを歩かなかったそうです。勇にはそういう配慮をするところがあったんですね。また沖田さんが具合が悪くなって調布までかごで帰ってきたという記述は、誰でも書くんです。でもそこからどうやって江戸に帰ったかは書かない。普通なら甲州街道を江戸に向かった、と書くんでしょう。調布に来てから上石原、そして我が家に来て、人見街道を通って江戸に帰ったんじゃないかと思います。そのくらい沖田さんも宮川家と近かったんです。

そういった事情がほぼ間違いないだろうという証拠があります。


武田 どんなお話ですか?


4) 明治になって来た新選組関係者


宮川さん 勇五郎のところに明治になってから来た新選組関係の方は誰だと思いますか?


武田 ひょっとして沖田さん関係の方ですか?とすると・・・


宮川さん そうです。沖田さんのお姉さん、おみつさん。


武田 大河ドラマ「新選組!」では沢口靖子さんが本当にかわいらしく沖田みつさんを演じていらっしゃいましたね。そうですか、そんな日常に近いエピソードはどこにも出ていません。非常に貴重なお話を聞いていると思います。


宮川さん 実はおみつさんは勇五郎さんのところにはちょこちょこ顔を出しているんです。場所も遠かったのもありますが、土方さんのご遺族とお会いしたのは昭和50年が初めてです。そのくらい土方家、宮川家は縁遠くなりましたが、沖田みつさんの方は足繁く来ていただきました。元々近かったんでしょうね。まあもっとも、その昭和50年からは遺族は皆仲良くなって飲み仲間になりましたがね(笑)。


武田 勇五郎さんから生の話として聞かれたということ自体が凄いですね。



5) 語られない近藤勇のイデオロギー


宮川さん 近藤勇を語るときのポイントは勇のイデオロギーだと思うんです。


武田 というと?


宮川さん 3年ほど前、茨城県の芹沢鴨さんの命日に呼ばれて行きました。そこで話をしてくれ、と言われました。そのとき「芹沢先生が」と言ったところ皆驚いた。


武田 常識としては互いに仇敵、粛清した関係と思うでしょうからね。「先生」と呼ぶのは・・・


宮川さん ええ。でも「先生」と言うことには理由があるんです。井上源三郎のお兄さんの井上松五郎さんの日記の記述なんです。


武田 天然理心流の生え抜き、六番隊組長の井上源三郎さんのお兄さんですか?


宮川さん はい。文久三年、京に勇たちが行ったのと同じころに彼も京に行っているんです。その日記の中に、勇、土方さん、沖田さん達が集まって昔話やくにの話をした記述があります。そこで『近藤が「天狗になっちゃったよ」と言った』というようなことが書いてあるんです。井上源三郎さんのご子孫に聞いたら、これは「鼻が高くなった、ということじゃないんです。水戸の天狗党になった、芹沢鴨のイデオロギーに共鳴した、と言っているんです」と教えていただきました。なるほど、そう読めば納得できることがたくさんあります。


勇は剣で身を立てるということだけではなく文久三年から慶応4年の一月まで公のために戦ってきたんじゃないかと思うんです。

それを現したのが勇の短歌です。

 「事あらばわれも都の村人と なりてやすめん皇御心(すめらみこころ)」


上洛してすぐに作っている短歌です。勇がそのために戦った公というのは、勤王だった、ということなのでしょう。


同じく勤皇の志を歌っているのは芹沢先生です。一緒に京に残って新選組を作るに至った一番の理由は、芹沢先生のイデオロギーに共鳴したということなんじゃないでしょうか。京都につくまでに尊皇攘夷について話し合ったでしょうし、仲良くなったんでしょう。そう考えれば自然に思えます。


普通、勇のイデオロギーについては語られませんし、勇自身がはっきりとした言葉としては残していません。いつかもっと研究が進めばいいと思います。

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