流租 辻月丹
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▲元禄15年に起こった赤穂浪士事件。

剣禅一致の人として
20年の参禅により、一介の剣客でなく、剣者と共に禅者でもあり、学者でもあった月丹は、吸江寺を訪れる大名とも対等に語る事ができたと言います。中には小笠原佐渡守長重、厩橋の藩主・酒井勘解由忠挙、土佐藩主・山内豊昌等がいました。

鮮やかな抜きつけの一刀 自鏡流居合
居合は多賀自鏡軒に学びました。
師の山口卜真斉が江戸を訪れた際に、その求めに応じて居合を披露、灯明の火を抜きつけの一刀で三度消して師を驚かせたぞうです。
ときに34歳と言いますから、並大抵の方ではなかったのでしょう。

大名が学ぶ流派として
元禄9年から宝永6年(1710年)まで14年間の誓詞によると、月丹の弟子は、万石以上の大名32家、直参156人、陪臣930人。この数字は押しも押されもしない、大名が学ぶ流派となっていることを示しているでしょう。

しかし一探求者としての人生を希望していた月丹自身は、大名家から、師範役として迎えたいとの度々の申し出を断り、厩橋藩(後年姫路藩に転封)酒井家には月丹の甥無外流第2代辻右平太を、土佐藩山内家には月丹の養子で無外流第3代、後継者の都治記摩多資英を推挙し、師範役としました。また伊勢崎の酒井家(分家)磯田某も右平太に学び、その流れは挙母藩(ころもはん、現在の豊田市)の内藤家に伝わりました。
月丹61歳の時、酒井忠挙の取り計らいで、御目見得の儀として5代将軍 綱吉に謁見の許可が出たが、不運にも綱吉死去により実現しませんでした。しかし、 一介の浪人剣客に御目見得の許しが出た事は当時破格の出来事でした。

無外真伝剣法訣
剣者であり、禅者でもあった月丹は、剣と禅は一如であるとし、その内容・文章 の充実さに於いて一流とされます。月丹が著した伝書「無外真伝剣法訣並序」の末文に、 「右無外真伝の剣法は禅理をもって教導致すところ、貴殿禅学御了知の上当流の剣法御懇望且つ御篤志につき…」とあり、門弟達にも参禅させ、禅学了知の上でなければこの「無外真伝剣法訣並序」を授けなかったようです。そしてその内容も禅語で表されています。月丹の没する三ヶ月前の姿は、袈裟を掛け、手には払子を持った高僧の姿で描かれているといい、また別の画には袈裟を掛けた姿ではありますが、右手に木刀を持ち、眼光鋭い剣者月丹が描かれています。
 

こうして家庭もつくらず一生を不犯で通した月丹は、享保12年(1727年)6月23日、 禅学の師・石潭禅師と同月同日、座禅を組み、念珠を左手、払子を右手に持って一生を閉じたといいます。ときに79歳。
遅れてきた剣豪ですが、武人として大きな足跡を現代まで残すことになりました。


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